代表取締役社長執行役員
FUMIO HIRAOKA
Interview
ワッツ30年ヒストリー
この30年間で100円ショップは、催事のイメージから常設店舗という完全に確立された一つの小売り業態になったと思います。30年前、会社を創設するにあたって、たまたま100均をやった。そういう意味では、創業者の平岡亮三の運が良かったというところがあるのではないでしょうか。
実は創設当時、すごい思い入れを持って100均を始めたのではありませんでした。自転車や羽毛布団など様々な物を売っていましたが、それではダメで時代背景や前身の会社で培った運営のノウハウを生かし100円ショップの運営を始めました。
当時は事業の負債・借金を返すという切実な問題もあり、目先の資金繰りと給与を支払うことで精一杯だった。店舗の内装も壁に幕を貼ってレジを置いたら店舗ですという感じでした。撤退するときも幕をはがすだけというような店舗。徹底的なローコストオペレーション、店舗というより「常設の催事」でしたね。それが30周年を迎える会社になり「本当によく30年やってきたよね」と思うのです。
今日を迎えるまでの中で
印象に残っていること
やはり、ワッツが上場できたことですね。上場を目前に大手取引先の倒産で、上場申請した翌日に取り下げたこともありました。さすがに上場は難しいのではと言う時に、幸い思っていたよりも少ない損失で済み上場申請ができた経緯がありました。
この度も本当に運が良かったのだと思います。しかし上場できた時、平岡亮三が病に倒れており、元気なうちに上場できなかったことは残念に思うところです。
ワッツの現在地
会社を作った一番の理由は何か?というと前身の会社が倒産し、そんな中「みんなで飯を食えるようになろう」という思いが一番にあったと思います。上場したのも「もっとうまいものが食えるように」という事なんだと思います。
私は、ワッツの本質はそこにあるのだと思います。私が入社したころから徹底したローコストオペレーションで、スタート時点の「とにかく食えるようになろうぜ」が現在も染みついています。総務の業務に携わっていたころ、新入社員をプレハブでできた店舗へ連れて行きこういう店舗が原点なのだと紹介したことを思い出します。
幸いなことに100均が一つのフォーマットとして認知され、テナント出店できるようになり我々は出店できている。おかげさまで売上高も伸ばしてこられ、ちゃんとした業態に育ってくれていると思います。それほど会社に余裕があるわけではないので社会貢献云々は言えませんが、会社として現在存続していること、給与がきちんと支払えて、みんなが飯を食えている。それが一番大切だと思います。
私自身は100均のプロでも経営のプロでもないので、事業のことをよく知っている人の意見をよく聞き合理的に経営判断することに努力してきました。日々、会社にとって有益な存在であり続け、自身が役に立てる部分があるように、またそれをきちんと実践できるように実行することを心がけています。
ワッツのこれから
少し前までは、「経営者の想像をはるかに超えて今日この姿になっている」ということは概ねなく、現在の姿は想像の範囲内なのですよ。しかし、世界の状況もめまぐるしく変わり、少し前のことが今では通用しなくなる。今後は、今行き詰っていることを立て直し伸ばしていきたいという思いはあります。SNSやEコマースの分野は大きく変わってくる可能性があります。それをうまく使いこなせないと10年後、20年後は取り残されてしまうのだと思います。
しかし残念ながら、それは私の役割ではないと思っています。新たなリーダーに代わってもらわなければなりません。そして私たちはそういう人材を育てなければなりません。育てるというのはおこがましいですね、芽を摘まないようにしなければなりません。10年後も100均がわが社の大黒柱であることは変わらないんだと思います。
ですが、大きく飛躍するためには、2本目3本目の大黒柱を見つけなければなりません。そうすると10年後に今とは違った景色が見えるかもしれませんね。その時、「もっとうまいものが食いたいね」という話にとどまらず、「みんなでハワイに行きたいね」に変わっているかも。せっかく資本主義日本の会社として成長してきているのだから、世界に羽ばたくワッツを構築できるような後継者に出てきてもらうこと、それに勝る喜びはないです。
しかしながら100年後もちゃんと飯が食える会社であることも素晴らしいことだと思います。かつて、プレハブ店舗で平岡亮三・近石弘が私に「ワッツを一緒に上場させよう」と私に言い切ったように経営する以上、夢は持った方がいいと思っています。
こぼれ話
インタビュアー:ワッツができる前年の94年にご結婚された平岡社長。ご結婚前から、一緒にワッツで働いてほしいと言われていたのですか?
平岡社長:そんな話が来るとは全然思っていませんでした。東京に嫁いできてくれると思い、家を建て、当事無職の平岡亮三ご夫婦ともゆくゆくは、同居するのだろうと思いお二人のお部屋も用意していたんだよ。でも、結婚する間際に、平岡を名乗ってくれと言われ、あれよあれよとというか、一寸先は何があるかわからないよ(笑)一生、教師の職でいいと思っていたんだ。情熱をもって日々授業に臨んでいたし楽しかったんだよ。それはそれで楽しい人生だったと思うが、だいぶ違う人生を歩むことになりました。
ワッツを作るって言ったとき、周りは猛反対したんですよ。成功するなんて誰も思ってなかった。しょうがないという気持ちで、成功しないんだろうと。多分なくなっちゃうからその時は東京に来てもらうしかないよねって。切羽詰まってたんだよね。
今会社を設立して事業を始めないと手元の資金がなくなっていく。前身の会社がつぶれ、平岡亮三と近石弘が「どうする⁈」ってなって元手が少なくても結構儲かる100均をやった。ちょっと変わったことをやった会社でもあって大変だったけど面白かったよ。そう言った意味では、平岡亮三さんはついてる人だったのかもしれないけれど、私、平岡史生もついてる人なんだよね!